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2013年8月24日 (土)

須磨から~

250pxwadamisaki_lighthouse_28月23日から26日まで兵庫県神戸市須磨の国民宿舎シーパル須磨にで日本カイロプラクティック連合会・全国健康生活普及会主催の腰肩集中セミナーが開催されています。そのシーパル須磨のところに須磨の赤灯台が立っています。結構有名で、須磨のシンボルだそうです。その歴史を調べてみると、明治初期に建てられた本州最古の鋳鉄灯台だということ、そして以前は〔和田岬の赤灯台〕だったのはつい最近のことです。では灯台の設計者のR・Hブラントンの話から入っていきましょう。1858年〔安政5年〕江戸幕府はアメリカとの間に日米修好通商条約を締結し、すでに開港済みの下田・箱根に加え、新たに神奈川・長崎・新潟・兵庫の四港を開港することになった。その後も開国が推し進められ、1866年(慶応2年)5月にはアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4か国と江戸条約を、1867年(慶応3年)4月にはイギリスと大阪条約をそれぞれ結び、灯台の整備をすることが定められた。しかし当時の日本には灯台建設のための土木技術がなかったため、明治政府はイギリスの公使パークスを通して、一人のスコットランド出身の鉄道技師を雇い、その指導にあたらせた。この技術者は名前をリチャード・ヘンリー・ブラントン(1841~1901)といった。ブラントンは日本に滞在した約8年の間に、26の灯台、5か所の灯竿、2艘の灯船を建設するなどして、日本の灯台システムを確立した。また、灯台技術者を育成するための「修技校」も設け、その灯台技術と職場規律は日本に受け継がれた。その他、日本最初の電信工事(1869年・横浜)や鉄橋建設(横浜伊勢佐木町の吉田橋)、港湾改修工事計画策定(大阪港・新潟港)、横浜外人墓地の下水道工事の設計などにおいても数多くの功績を残し、1876年(明治9年)にイギリスへ帰国した、ブラントンは帰国後、『日本の灯台(Japan Lights)』という論文を英国土木学会で発表し、晩年には『ある国家の目覚め・日本の国際社会加入についての叙述とその国民性についての個人的体験記』という原稿を書き、1901年(明治34年)に59歳でこの世を去った。数多くの灯台の設計や建築に携わったことから〔日本の灯台の父〕とよばれている。、

 

 

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とこんなすごい方が設計したのが今残っている〔須磨の赤灯台〕なんだそうです。ただ、この鋳鉄製の灯台になる前はじつは木製だったそうで、次は〔須磨の赤灯台〕について・・・和田岬灯台は1871年(明治4年)に木造の灯台として和田岬砲台の横に立てられ、1872年(明治5年)に初点灯された。当初は八角形だったが、1884年(明治17年)の改修によって現在の六角の鋳鉄製灯台に変わった。その後、和田岬は埋め立てが進み、1964年(昭和38年)には廃灯となったが、明治時代の洋式灯台建設の歴史を示す貴重な資料だということで、現在の場所に移され、保存されることになった。1998年(平成10年)には国の登録有形文化財となった。高さ約16mのこの貴重な灯台の内部は、現在非公開となっていて、一般市民が目にすることはできません
 

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所属:全国健康生活普及会(全健会)、日本カイロプラクティック連合会(JCA)、ホリスティックビューティインターナショナル(HBI)、(株)日本直販総本社